多くを与えらるる者は、多くを求められん。

 「勝ち組」「負け組」などいう言葉をはやらしたやつは、どうせ受験校出身だろう。ああいうところでは、成績順位でクラス分けがなされる。とはいえ、そういうことを言っているやつに限って、受験校出身のくせに東大京大を落ちて、海外か大学院で学歴ロンダして、外資系かなにかで高給を得て、それで自分が「勝ち組」だ、などと思っている。でも、いい年こいて、いつまでも人と競争していること自体、もうすでに、取り返しのつかない「負け組」なんだよ。

 モーツァルトでも、ゴッホでも、ガロアでも、天賦の才は、呪いに近い。カネが儲かろうと儲かるまいと、地位が得られようと得られまいと、その才に呪われた自分自身からは逃れることはできない。自分自身の中に、与えられし才を生かさずにはいられない焦燥がくすぶり、やがては人生そのものまでも焼き尽くしてしまう。

 しかし、天賦の才というものは、じつはすべての人に与えられているものだ。この世に生まれ、生きていること自体、命という炎を与えられている。その命の炎は、生まれながらに、その人としてすべきことを求めている。にもかかわらず、多くの人は、その自分に求められているものを無視し、自分の外に求める。だから、ダメなのだ。だから、しょせん一時に勝っても、永遠の「負け組」なのだ。

 カネでも、モノでも、それは自分ではない。どんなに着飾り、どんなに威張っても、それらはしょせん外面のことだ。世間は、しばしば、どうしようもないものを担ぎ上げる。そして、突き落とす。それだけのことだ。それは、世間にとっての気晴らしのおもちゃであって、担がれ、落とされるその人自体は、結局のところ、何ものでもない。ただのゴミだ。ヘーゲルの言うように、主人は、下僕なしには成り立たず、この意味において、主人は、下僕の下僕であり、下僕こそ、主人の主人なのだ。

 ルカ伝に、主人の意を知りながら備えず、また、その意に従わぬ下僕は、鞭打たるること多からん、と言う。真の主人がだれかを知らず、それぞれの命という天賦の才に込められた意を解さずに、好き勝手を続けていれば、そこにはかならず無理があり、いつかはやがて、悪しき報いがある。それが、道理というものだ。



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