舞台演出家不要論

 日本の演出家として大御所と言えば、浅利慶太蜷川幸雄鈴木忠志、そして、山田和也や野田秀樹など。しかし、彼らの舞台を見ていて気になることがある。ぜんぶ一人語りにしか見えないのだ。どの登場人物も、同じ速度、同じ調子でセリフをしゃべる。アクションのメリハリまで同じ。

 だいいち、大御所の演出家って、実際に、個々の舞台に関していったい何をやっているのか。役者を調教して家畜にしたら、あとは舞台監督に進行任せで、ひどいときには、現場に立ち会いもしない。なんでそんなので成り立つか、と言うと、日本の舞台演出家というのが、演出家である以上に、じつは座長、つまり資本的製作責任者としての存在意義が強いからだ。つまり、北島三郎水前寺清子五木ひろし氷川きよしなどと同類で、主演役者以上に興行の看板になっている。そして、それを維持するために、若い役者たちを次から次へと使いつぶす。彼らの情熱と生き血をすすって、老獪な演出家は喝采を浴び続ける。

 四季メソッドや鈴木メソッドなど、それはそれでけっこうなのだが、スタニスラフスキー・システムとは似て比なる、大きな欠陥があるのではないか。内面性を表現する、と言いながら、その内面性が演出家によって洗脳されたものであれば、それは登場人物の内面性でも、俳優の内面性でもない。SCOTの『リア王』なんか、気持ち悪いったらありゃしない。だれがだれだか、まったく区別がつかない。まるで晩年の黒沢映画と同様の、ただのでくのぼう人形だ。

 舞台の役者は人形じゃない。生身の人間だ。そのコントロール不可能な人間と人間とのぶつかり合いにこそ、人形劇にはない舞台の魅力がある。ところが、舞台に上がらない(上がれない)演出家の嫉妬で呪われた役者たちは、その心の命が奪われてしまっている。だが、自分自身で動く生身の身体の魅力がないのなら、そんなのは舞台じゃない。

 おもしろかったのは、鹿賀丈史滝田栄が四季に不満を募らせて辞める寸前のジークラで、そこでは、ジーザスとユダが演出を越えて主役の奪い合いをやり、それに若手のアンサンブルが賞賛とも敵意ともつかない思いを秘めて、二人に絡んでいく。そのうえ、彼ら全員が、そのような無益な争いを強いて楽しんでいる浅利慶太に対して、憎しみを浮かび上がらせていた。それは、まさにジークラのテーマそのものだ。

 演出家と主演俳優たちが拮抗し、対立しあってこそ、そこに、一瞬の油断もできないようなライブの舞台の緊張感が走り抜ける。舞台の役と俳優の人生とが交錯してこそ、この世のものではない力と光が、そこに火花を散らす。そういう緊張感をキャスティング権限の力で踏みつぶすような演出家なら、居ない方がいい。荒ぶる主演俳優との緊張に耐えられず、家畜役者しか使えないような老いぼれの演出家なら、俳優たちの方から捨て去って、独立してしまった方がいい。


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