若者の失業と社会学の失敗

 ギリシア経済がおかしい。昨年の政権交代財政赤字が表面化したからだ。これに引きずられてユーロが値を下げている。とはいえ、ドルも、円も、もともと弱含みなのだから、実際は、通貨というものそのものが信用危機に陥り始めている。ところが、金なども下がっているので、そのことも見えない。交換価値そのものが流動性を失いつつある。市場経済という社会システムそのものが、底が抜けかかっている。

 このことは、若者の失業を見るとわかる。それは、ギリシアやイタリア、旧東欧圏だけではない。フランスでも、英国でも、どうしようもない。中南米はもちろん、北米も、日本も、そして中国も、若者が職に就けない。それでいて、どこの国も、救いがたい財政赤字を抱えている。税収に基づく支出、などという原則は、とっくに破綻している。

 百年前の第一次世界大戦後の大不況において、政府主導による需要喚起という政策が生まれた。それは、「投資」であって、将来の税収増によって均衡する、と言われた。しかし、その後も、この政府による「投資」は膨張し続け、現在に至っている。基幹の交通網は、たしかに波及効果が期待できたが、不況対策のばらまきは、投資としてのリターンはゼロ。それどころか、維持義務を考えると、むしろマイナスの投資ですらある。

 経済や社会学では、自律均衡の機能を伴う有機的なシステムとして社会を考える。しかし、それは、歴史的視点のない、まったくのドグマだ。現実の歴史を見れば、社会が元の状態に回帰したことなどない。むしろ、回帰しようとすることによって、システムそのものの新たな組み替えが起こってしまっている。

 我々に必要なのは、年次ミクロ的な社会システム論ではなく、歴史マクロ的な文明論の視座だ。文明は、勃興し、衰退する。けっして回帰しない。歴史性や既得権を代謝できずに内部に蓄積してしまうので、回帰などできない。だから、別のところに、新たな文明が起こる。

 世界的な若者の失業、通貨経済に対する絶望、という異常問題に対し、我々は何ができるのか、何をすべきなのか。それは、経済が回復すれば、解消できる、というような、ちまい問題ではない。中世に対してはルネッサンスが、貴族社会に対しては共和主義が、そして、国家主義に対しては市場経済が、その内部から生まれ、激烈な闘争の末に置換された。いま、近代というパラダイムそのものが破綻しようとしているのに、我々は、それに変わる展望を持ち合わせていない。だから、なにも起こらない。ただずるずると、世界全体が沈没していく。

 新しい時代、それを見つける使命が、哲学や社会学、経済学には課せられている。にもかかわらず、これらこそが、古いパラダイムの中にどっぷり浸かって、守旧派の牙城となってしまっている。しかし、我々は、世間にあって、日頃、だてに労役を免れ、知に遊ばせてもらっているわけではない。こういう時にこそ、考えて、考えて、何か新しい答えを出すのでなければ、我々に存在意義はない。