プロティノスの内的形相

 またプロティノスなどと、古くさいものを、と言うかも知れないが、その理論は、現代の美学の問題の根幹に関わる。プロティノスは、三世紀、ローマ末期の哲学者で、新プラトン主義者として知られ、グノーシス主義に影響を与えたが、哲学史からすれば、ルネッサンス期に翻訳され再発見されるまで忘れ去られていたような人物だ。しかし、その再発見とともに、その後の芸術論に多大な影響を与えた。

 もともとプラトンに形相の概念がある。美は、質料(素材)ではなく、その形相に宿る。芸術家は、天上の形相を地上の質料において模倣する。そして、鑑賞者は、その作品そのものを美とするのではなく、その作品を契機として、美なる天上の形相を思い出す。和歌など、まさに、こんな感じだ。歌は、その歌に歌われた景色を想起させ、そこに美を思い起こさせる。

 新プラトン主義のプロティノスの説は、一者流出という理論を取り込んだために、もっと手が込んでいる。芸術家は天上なる形相を、いったん内的形相として自分自身の中につかむ。そして、それを作品の外的形相として実現する。そこから、鑑賞者は、芸術家の内的形相を読み取る。ここで重要なのは、鑑賞者にとっての美が、天上の形相ではなく、芸術家の内的形相にすりかえられたことだ。

 この説の影響力は、すざましかった。いまでも、文芸論や芸術論で作者の意図を読み解くことに力点が置かれていることが少なくない。演奏のための譜読みなんか、まさにこれだ。シュライアーマッハーに至っては、解釈学として、作者以上に作者を理解せよ、と言う。それは、作者の内的形相を通じてのみ、鑑賞者は、作者がつかんだ天上の形相へ近づきうる、という流出遡行の教義で、かなり卑屈で神がかっている。まるで、作者を介することなしには、鑑賞者は美に近づき得ないかのような、新たな教会鍵権のような話になっている。

 そして、このような旧教的な美学があればこそ、受容理論という新教的な美学が登場する。作者も、作品も、すでに死んだもので、それを蘇らすのは、さまざまな文脈の交差点である鑑賞者の方だ、という理論。しかし、これも、はなはだ越権っぽい。実際、こんなことを言うのは、評論家で、芸術家ではない。ここには、ニーチェルサンチマンのにおいが立ちこめている。

 プロティノスや旧教的美学の誤りは、内的形相を実体的に理解していることではないだろうか。本来のプラトンからすれば、天上の形相は、人間には絶対的に掌握しえないものだ。だから、それを知っているなどというソフィストを、ソクラテスプラトンは嫌い、知に代えて、愛知、すなわち、哲学と言った。それは、形相そのものではなく、形相への方向の知にすぎない。東京はこんなところだ、という知ではなく、せいぜい、東京に行くのはこっちだ、という道しるべの知にすぎない。しかし、それを知るとき、その彼方にあるらしい、きらめく街の様子を、我々は伺うことが出来る。

 芸術における内的形相も、本来は哲学にすぎない。芸術家は、年来の苦労の末、美があると思われる方向を発見し、その方向を作品に記す。そして、それは、鑑賞者に、美の方向への気づきを引き起こす。芸術家の内にも、作品の上にも、鑑賞者の内にも、美などない。芸術は、哲学として、美を気づかせる。鑑賞者もまた、芸術家とともに、その先の美を請い求めてこそ、そこにほのかに美を知ることができる。