教養部解体とその後の大学6

 ようするに受験校上がりは、文化的な教養がない。人間としての幅が狭い。付属校で遊び歩いていた連中の方が、余計なことをいろいろやっているので、話もおもしろい。それで、コネだけでなく、実際に人望もある。一方、受験校上がりは、卒業しても、だれも人が引き立ても、後押しもしないから、競争を続けるしかない。せいぜい外資系の金融にでも行って、破格の高給をもらって、「勝ち組」のつもりになるくらいのものだろうが、そのうち、米国の世襲ボンボン社長の気まぐれで、かんたんにリストラされちゃったりしてね。人生を勝ち負けで考えなければならない時点で、そういうやつは根っからの「負け組」なんだろう。

 さて、教員における大学の評価についても同じことが言える。給与が低い大学は論外だが、高いほど良い大学だ、などと思っている教員は、まずいない。そういうところは、時代錯誤のマスプロ教育の体制に膨張してしまっていて、この少子化の時代に、経営的にかなりやばいことになってきている。理系だと、設備が整っていて、研究費が多く、科研費もとりやすい、ということを望むかもしれないが、これも中堅以下の、よほど条件の悪い大学の問題で、上半分は、どのみち総合施設を使ったりするから、そう大差ない。だいいち、旧帝大の方が、実際、設備が悪い、ぼろい、汚いところが多い。でも、教員にとっては良い大学なのだ。

 なぜかというと、教員間での大学の一番の評価基準は、先任の教授連だからだ。さすがに旧帝大(「宮廷」)は、ふところが深い。たいていのことをやっていても、たがいにまともに評価してくれる。一方、嫌われているのが、BSE教授の多いDQN大学。人事制度そのものが狂っていて、まったく業績のない連中が派閥競争や年功序列で教授になり、若手や中堅が居着かない。だから、いわゆるロートルの吹きだまり。こういう大学は、飼い殺しの「ドナドナ」の道などと言われて、正体不明の地方私立に多いのだが、じつは東京や関西の有名大学にも、いくつも札付きのところがある。なまじ歴史のある師範学校上がりの地方国立(「遅刻」)も、じつはそうだ。卒業生からの内部昇格ばかりで、人事評価が閉鎖的で、外から来た者を嫉妬していじめて、つぶす。遍歴が信条の大学のくせに、永年勤続功労賞なんてあるところは、たいていダメ。