物書きのための文体論3

 エッセイストなら話は簡単だ。自分の趣味趣向がはっきりしていれば、そこにおのずからオリジナルの文体ができあがってくる。だから、自分の文体を確立しようと思えば、自分の趣味趣向を極めることだ。そうすれば、他の人には書けないような話の転がりが生まれてくる。

 しかし、ここでわざわざ、物書きのための、と断りを入れているのは、話がそう簡単ではないからだ。小説などにおいては、複数の人物が登場してくる。それが話の中でぶつかりあう。ここにおいて、Aという人物と、Bという人物とは、まったく別の思考方法を持っていないといけない。前にも書いたが、下手な小説だと、登場人物の発想や行動が、みんな作者本人と同じになってしまう。いわゆる人格分離不全というやつだ。

 まして、コピーライターだの、雑文書きだの、となると、クライアントや雑誌の既存の文体というものがある。その原理原則を、限られた過去の例から即座に把握して、それを新しい方向へ展開しないといけない。言ってみれば、人格憑依的な、文章のモノマネだ。

 つまり、自由に自分の文章を書くだけのエッセイストと違って、物書きにおいては、いま、自分の書こうとしている文体を自覚的にコントロールし、そのときどきで確実に乗り換えなければならない、ということだ。それでいて、その全体において、あくまで自分の文体というものを維持していないと、自分の作品にならないし、自分を指名しての仕事を得ることはできない。

 だが、これは可能だ。その秘密は、文体というのが、文字面ではない、というところにある。文字面だの、口調だので、人物を書き分けても、やはり同じ人物がしゃべりかたを変えているようにしか見えない。逆に、だれもが同じ慇懃無礼な丁寧語で応酬をする銀行の取締役会だの、粗暴下劣な通俗語が飛び交うヤンキーの集会だのであっても、その中に流れるリズムやチューンがそれぞれに違えば、だれが読んでも別々の人物に感じられる。