物書きのための文体論2

 さて、文体がわかったとして、自分の文体を確立する、とはどういうことだろう。困ったことに、哲学科においては、各教員が範とする哲学者の文体を強制された。いや、強制された、というより、連中は頭が硬直してしまっていて、その文体以外を読めなくなってしまっていた。本人たちは、それぞれに気取って偉そうに文章を書いているのだが、それは仲間内にしかウケない文体だ。それで互いに賞を出したり、引用しあったりして、楽しんでいる。そして、それ以外の文体のものを、ろくに読みもせずに、自分の文体で貶しまくっている。

 あー、気持ち悪い。ホモデブだらけのサウナのように暑苦しい。それで、ようやく十川女史が、若い学生に忠告してくれた意味がよくわかった。ああは、なるな、と言うことだ。数学でもそうだが、同じスタイルの中では、もはや解はありえないのだ。まったく新しいスタイルだけが、解を切り開く。イプシロンデルタ論法とか、対角線論法とかのような、まったく新しい発想のみが、新しい広大な領域への扉となる。同じ群の中をさまよっていても、そこに出口はない。出口がないのが証明されているところで、その亜流ごっこをやっていても、時間の無駄だ。

 (話は変わるが、『容疑者Xの献身』で犯人が数学者ということになっていて、四色問題がお飾りとして使われているが、肝心の犯行のトリックがぜんぜん数学っぽくないのには笑えた。あれ、高校教師の高校生に対する出題のヒッカケ方法で、数学者の話じゃない。ガリレオにしても、犯人にしても、そこには、結局、作者の東野圭吾本人が出てきてしまっている。まるですべてが一人芝居。もし本格ミステリとして四色問題を言うなら、いろいろと複雑なアリバイも、じつはすべてたった四人でできていた、というような、もっと数学者らしいトリックにすべきだった。会話を隣接ノードのエッジと考えれば、まさにそれは数学的な問題だ。)