物書きのための文体論1

 それは普通の一軒家だった。東大の裏門から出て、ちょっと渋谷の方に行ったところ。まだ大学二年生だったときに、工作舎の気鋭の編集者、十川治江(そがわはるえ)女史に、原稿を見てもらった。工作舎は、マンネリ化してしまった平凡社「太陽」に代って、松岡正剛が「遊」という挑発的な百科全書的アスペクトの雑誌を出していた出版社であり、なにより書籍デザインが新鮮だった。

 十川女史は数学の出だ。その彼女が教えてくれたこと。それは、意外にも、文体のことだ。プロの物書きになりたいなら、まず自分のオリジナルの文体を作りなさい、それさえ確立すれば、内容のおもしろさは後からついてくる、と。なんで文体なのか。彼女が名を挙げた小説家やエッセイストの作品を読んでみながら、その後、長らくそのことを考えていた。そして、しだいにわかってきた。

 それは、つまるところ、文字面の話ではない。論理展開のオリジナリティだ。公理系がしっかりしていないと、全体がぐらついて歪む。逆に、それさえかっちりしていれば、文字面にアラがあっても、話は首尾一貫する。

 で、私は、それまで興味を持っていた数学だの、論理学だのではなく、本郷の文学部の哲学科に進学した。まあ、それこそライプニッツだの、ウィットゲンシュタインだのはもちろん、ヘーゲルプラトンも、「文体」という問題がから眺めるようになった。プラトンの作品が複数の登場人物の対話篇だと言っても、しょせんプラトンが一人で書いているのだ。おのずから、そこには一人の勇み足や息継ぎ、勢いや逡巡がある。