アクション映画の良心3

 こんな映画、当たるわけがない。結局、無冠だった。が、評価は高い。まずは儲けるために、と、売れる要素をてんこ盛りにして、そのうえ、暴力はいけません、とか言われて、やたら理屈っぽい、あちこちに配慮だらけのマーケットインのアクション映画が多い中、『ランボー』は、全部を削ぎ落としてしまった。会話も成り立たず、暴力としてのアクションしか残らなかった。だが、きちんとテーマを語ることができる。

 マーケティングに甘んじてウケ狙いばかりしている連中には、生きた哲学がない。『有頂天ホテル』とか、『舞妓Haaaan!!!』とか、なんぼ有名な脚本家だか知らんが、あまりにつまらないんで、ランボー並みにハリセンの機関銃でも食らわしてやりたくなる。生きた哲学、というのは、作り手自身の人生を賭けているものだ。世渡り上手なやつの、世間受けする気の利いた能書きじゃない。世間から反発をくらうのは必至でも、なんとしても人々に伝えたいメッセージだ。たがいに敵対的であるにせよ、ムーアやスタローンにはそれがある。

 語る、ということは、映像で語ることだ。セリフでテーマを語るなどというのは、鯛の絵を描いて、鯛がテーマです、というくらいバカげている。手段そのものが目的であるなら、そこに目的は存在しない。その映画は、映像を手段としてなにを伝えるのか、ただそれだけが問題だ。そして、『ランボー』に至っては、エンドロールですら、テーマを語っている。ちかごろクレジットはコピーライトの関係で長くなりがちだが、『ランボー』の場合、意図的に遅い。そして、10分近く延々と戦闘シーンのBGMが流れ続ける。これによって、我々は終っていない戦争というものを思い出さざるをえない。

 先日、アリゾナのボブおじさんと、『ビッグスリープ』について話していたら、第一次大戦後と第二次大戦後のフェミニズムの勃興と、寡黙なマーロウのバックラッシュが問題になった。そうでなくても、アクションシーンは話が進まない、映画にとってギャグ(かませもの)でしかない、として、アクションを評価していないボブおじさんだ。『ランボー』のような、セリフのない、全編アクションだけで語る映画をどう考えるか、今度、聞いてみよう。