ディレクターカット信仰の誤謬

 近年、やたら、ディレクターカット版、などというものが出回っている。それを、完全版、などと言っている。原因は、映画館公開時に多くシーンのカットされているから、ということなのだが、カットされたシーンが「復元」されたものは、もとのディレクターカット版ではなく、ディレクターカット版に沿った再編集版である場合も多い。こうるさくなってきたのは、とくに『ブレードランナー』あたりからで、『グランブルー』だの、『アマデウス』だの、『ニューシネマパラダイス』だの、いろいろある。

 この背景には、ディレクターが映画を作る、というフランス・ヌーヴェルヴァーグの発想がある。が、それは、ひとつのイデオロギーだ。それも空虚な。読者理論からすれば、当たったのは、つまり、観客が良いとして評価したのは、公開版であって、ディレクター版ではない。歴史的事実として、映画は映画スタジオが作る、のであって、脚本家が脚本家以上ではないように、ディレクターは素材の絵を揃える以上の存在ではない。

 実際、『ニューシネマ』なんか、ディレクター版は、長すぎて、焦点がぼけて、後半、だれてしまう。もちろん、昔の彼女との再開があって初めて、おまえにはまだ早い、と言われて、かつてもらえなかった愛のフィルムの意味がわかる、という仕掛けなのだが、3時間も前のプロットなんか、ふつうの人は覚えていない。

 美学の原則に、部分は全体によってのみ意味づけられるがゆえに、作品は、その全体の記憶が保たれうる規模以下でなければならない、というのがある。ディレクターは、自分で創っているから、なんでもよく覚えているが、観客は、初見なのだから、だれがだれだか、なにがなんだか、わからなくなってしまう。創り手と、観客では、記憶の規模が非対称なのだ。そのことがわかっていないから、気鋭のディレクターに限って、こういうバカなものを創ってしまう。だから、映画スタジオがバッサリやる。

 ようするに、ディレクターのプレプロ作業が中途半端で、2時間120頁の脚本にまとまっていないのが悪いのだ。撮ってしまってから、ポストプロの編集でなんとかなんて調子でダラダラやっているから、スタジオが出てきて、強引に完成責任を果たすことになる。

 映画スタジオが切りたがるのは、映画館での回転数の問題もあるのだが、きちんとした作品には、きちんとした対応をしている。たとえば、スピルバーグの『シンドラーのリスト』は196分、キャメロンの『タイタニック』は194分もあるが、各シーンで、つねに全体が保たれている。だから、最初からノーカット版しか存在しない。