プロット・ドリヴン/キャラクター・ドリヴン

 「プロット・ドリヴン」というのは、仕掛けが巧妙なストーリーのこと。ごく平凡な登場人物たちにすぎないのに、その話の展開の中で、それぞれが魅力的になっていく。これに対して、「キャラクター・ドリヴン」とは、キャラクターの魅力に依存して見せるストーリーだ。逆に言うと、話なんか、ありゃしない。で、前者を「ハイコンセプト」、後者を「ロウコンセプト」と言う。

 ギリシア神話とか、黄金伝説とか、アーサー王と円卓の騎士たちとか、昔の話には、キャラクター・ドリヴンがいっぱいある。そのキャラクターは、とてつもなく有名なのだが、いったいなにをした人なのか、という肝心のところが、異説だの外伝だのだらけで、結局、よくわからない。なんにしても、その人が話に出てくる、というだけで、盛り上がる。

 この問題は、絵物語、そしてマンガやアニメに引き継がれる。というのも、別のところで論じたように、絵物語やマンガは、同一と認識されうる人物が、別の場所、別のコマにも現われてくることによって、時間制を生み出しているからで、同一と認識されうるキャラクターなしに時間的な物語展開ができないからだ。

 映画についても同様。小説の場合、名前によって同一性が維持されるが、映画では、見た目で注目を集めて同じと思われないと、シーンがつながらない。だから、やたら口がでかいとか、鼻がでかいとかいう女優や男優の方がいいんで、並みの美女美男子みたいのだと、だれがだれだか、わからなくなって、話がわからなくなってしまう。

 もっともひどいのが、子供番組で、トーマスとか、キティとか、バーディとか、キャラクターがあるだけで、話なんか、あったもんじゃない。やる気がないにもほどがある。もちろん、トロトロやニョッキみたいに独特の雰囲気があれば、それはそれでおもしろいのだが、トーマスなんか、いっつも意地悪ばっかだもんなぁ。トップハット卿は太っていて、駅員が痩せているのをみると、階級社会の英国には行きたかねぇなぁ、と思う。

 もちろん、完全なプロット・ドリヴンというのは、かなり難しい。通常は、キャラクター・ドリヴンにプロットを絡めて完成度を高める。しかし、キャラクターに依存しないプロット・ドリヴンは、ハリウッド以外の映画では、珍しくない。とくに日本映画は、小津から、近年の間宮兄弟のように、平凡な市井の人を描いて、なお魅力的に見せるノウハウがある。