芸術教育と生成の渦中

 同じことは、芸術教育にも言える。いかに先生に誉められるとしても、作品として上手なものなど、他人にとっては終わった話だ。そこには、なにも中身がない。芸術における中身とは、上手さを打ち破って現実を越え出て行こうとする情熱だ。もちろん、そんなものは、たいてい破綻する。ベートーヴェンでも、ゴッホでも、モネでも、ゲルギエフでも、それこそ、みんなある意味で破綻している。学校では、よほどの先生でない限り、その才能を理解できないだろう。

 人生でも、学問でも、芸術でも、同じことだ。内なる力がなければ、そこに未来はない。そして、内なる力に溢れていれば、表面上はむしろ破綻する。しかし、その破綻こそ、脱皮への糸口だ。たとえ時代に封殺されても、この情熱は、だれにも外から打ち消すことはできない。たとえ死んでも、そこにくすぶり続け、いつかはだれかの心に火を灯す。

 この問題は、昨日今日に始まったものではない。学校という制度そのものが持つ根源的な結果でもある。学校は、終わったことにおいてしか、人を評価しない。しかし、終わったところには、小さく終わった人しかいない。

 死ぬまで戦い続けている人は、振り返り、人を教えている暇などあるわけがない。このために、こじんまりと終わった人が、自分のようにこじんまりと終わって、よい教師になるように、若き才能を盆栽仕立てにしてしまう。しかし、世間で必要とされているのは、芸術の教員ではない。屋根を突き破り、屋敷をも踏みつぶすような、未来の荒ぶる才能だ。

 人として出来そこないの、ちまい教師ほど、未来ある若者にとって害になるものはない。いまだ何の作品も創っていない才能を見抜き、その才能のままに破天荒に育てるのは、それはそれで、作品の創作とはまったく別の、専門的な教育技量が必要となる。