エネルゲイアとしての作品

 学会や書籍で他の文学や映画学、マンガ学の研究者をみていて、よく思う。いったいこの人は何をしているのだろうか。作家だの、作品だのについて、とうとうと語っているが、彼は、作家でも作品でもない。研究者というより、しゃべりたがりの頭のいかれたファン以上の存在ではない。

 厳しい言い方をすれば、きっと彼ら自身も、ここで自分が何をやっているのか、よくわかっていないのだろう。熱心さだけは負けない、ということで、人を蹴落とし、それで研究者としての口を得ただけ。だから、彼が何をやっているのか、だれにもわからない。

 ようするに、哲学的な視座が欠けているのだ。致命的なのは、彼らが創り手ではないために、書かれた言葉、描かれた映像を対象としてしまっていること。クリスチャン・メッツなど、その典型的な誤りだ。できあがった作品を細かく切り刻んでも、芸術はその中には残っていない。それは、死体を解剖しても、命というものと見いだすことができないのと同様だ。

 アリストテレス倫理学や芸術学は、大いに学ぶところがある。彼は、人生や作品をエンテレキア(完成態)において論じることを否定する。死んでから、終わってからでは、人生や芸術もまた、そこには無い。人は、人や作品と、そのエネルゲイア(生成態)において対面し、ともに生きる。そのことによってこそ、対話し、感動する。

 ここにおいて、人生や作品は、生きられた生、語られた言葉ではない。その人が生きようとしている生、その作品が語ろうとしている言葉だ。ところが、それはおうおうに実現しない。形にすらならない。にもかかわらず、我々は、その未完の方向性にこそ、心を動かされる。終わってからでは、終わったことでしかない。

 何様とも知れぬ墓守の昔語りにつきあっている暇はない。人も、物語も、つねにつぎつぎと生まれ続け、我々もまた、生きて、生き、生きようとしているものと向き合う。そして、我々自身が生きて、自分を創ろうとすることにおいてのみ、人や作品は、我々に饒舌に語りかけてきてくれる。