信じるということ

 もともと行為論を研究している。つまり、なにかすることがどうすることか、研究するわけで、それで、映画論や物語論につながっているわけだ。

 しかし、行為の中には、いろいろ不思議なものがある。たとえば、XXしない、というような行為は、たしかにXXしないのだが、実際は別のことをしている。だから、見た目で判断が難しい。そのうえ、それが、XXしないのか、たんに別のことをしているのか、本人に聞いても当てにならない。

 もっと変わっているのが、信じること。これは、信じないということの方が目で見える行為になっている。信じていないと、途中経過を探ったり、対抗策を練ったり、余計なことをいろいろやる。

 これ見よがしに十字架をぶら下げていて、神様のことを書き散らし、言い散らし、本人のやっていることは、でたらめ、というような人のどれほど多いことか。富は天に積め、とか言いながら、自宅に現金を貯め込んでいて泥棒に盗まれた小説家とか、すべては神のお導きとか言いながら、女子学生を研究室のソファにお導きしまくって修羅場に陥った教授とか、信心ぶって余計なことを言ったりやったりすればするほど、信心の無さが露呈する。

 そもそも、心底、神様を信じている、とか、とか、夫や妻、友人を信じている、とかいうとき、本人は、信じているとすら思いもしない。そういうものだ、ということで、それだけのこと。逆に、あんなやつは信じられない、などと言って、相手のせいにしているのは、むしろ、そのことこそが自分の方から相手の信頼を打ち壊している。

 もちろん世の中にはろくでもない話はいくらでもある。しかし、だれでも、せめて、一日くらい、自分を投げ出し、何もしない、何も思わない日があってもいいのじゃないだろうか。空の鳥、野の花。そういう人のことを神様は見ていてくださり、そういう人のところにサンタさんはちゃんとくる。