映画における見えないもの3

 映画は、観客の世界と物語の世界をスクリーンでつなぐことによって、さらに特異な方法で欠落を示すことができる。たとえば、『マリー・アントワネット』においては、豪華絢爛な生活が繰り広げられる。それも、チケットを、高いな、と思って映画館に入った人々の目の前でだ。映画の中では当たり前のことが、自分の目の前のこととしては、自分にとって異様なのだ。彼らにはなにかが欠けている。

 もちろん、そんな映画ばかり見ている人にとっては、この異様さが抜け落ちてしまう。ヤクザ映画ばかり見ていれば、映画の中で、いてまうぞ、われ! とかぶちきれて、短刀を突き刺すのが当たり前になる。アニメばっかりみていれば、まるまるだっちゃ、だの、ばつばつだコロリン、だのいう変なしゃべり方が当たり前になる。そういう連中相手にしていて、自分もそういう風土に染まると、結局、その中でしか生きられない、向こう側の作り手になってしまう。

 これを防ぐには、映画のスクリーンの向こう側に、観客の代理人を入れることだ。彼は、あちら側では、むしろ違和感のある人物になる。が、それによって、観客の感覚は、現実に保たれ、向こう側の世界のグロテスクな異様さが見えるようになる。もっとも、この代理人は、最後には向こう側で殺されてしまってもかまわない。