映画における見えないもの2

 映画は、さまざまなものを見せることによって、逆に、見えないものをあぶり出すことができる。

 これは、芸術において、かなり特殊な技法だ。音楽においては、鳴っている音が聞こえる。聞こえない音にかまっている余裕はない。絵画でも、描かれた色が見える。描かれなかったものはなかったものでしかない。小説でもそうだ。ところが、映画では、欠落を示すことができる。これは、映画が視覚性に時間制を与えたことによる。

 ない、ということは、実在の側にはない。我々の喪失感こそが、その正体だ。単純な方法では、映画において、観客に充分に与えておいて、居て当たり前というほどになじませておいて、後に奪う。画面から消してしまう。しかし、我々は、なおも画面に、その失われたものを探す。『東京物語』でも、『風とともに去りぬ』でも、『アルマゲドン』でも、みんな同じ技法だ。

 『東京物語』においては、過去の子供たちが、そこにはもはやおらず、妻が失われ、ついには義理の娘さえも、帰って行く。いなくなった人々は、もはや画面には写らない。写っているのは、近所の人の声と尾道の風景だけ。父も、もはや多くを語らない。にもかかわらず、観客は、彼が失った人々を、彼の喪失感を、そこに見ることができる。

 これは、小説でできないことはないが、難しい。読者が自分の時間制で先へと読み飛ばし、間が詰まってしまうからだ。映画は、観客に間の時間を強制する。だからこそ、欠落がそこに生まれる。小津の時間とはそういうものだ。