映画における見えないもの1

 映画は見せる芸術ではない。見えないこと、わからないことが重要だ。たとえば、円谷の『ゴジラ』は、見えないところが恐い。もともと、原爆と台風の一体化した怪物は、姿などあるわけがない。それは、闇夜のなかで、黒い影として、見えないものとして存在する。同様に、『エクソシスト』は、最初から最後まであえて、わからない、ということに重点が置かれている。病気というには、あまりに異様で、悪魔というには、あまりにうさんくさい。しかし、そのわけのわからないものがそこにあるのだ。なんであるかわからないが、そこにある。映画はそれを示すことができる。

 これは、言葉語りでは難しい。言葉語りで、見えないもの、わからないものを示すことができない。言葉で語れば、それは、すでになんらかとして語られたものとして見えるようになり、それとしてわかられたものになってしまう。しかし、映画における謎は、小説の謎とは違う。存在だけがあって、その真の姿は見えないままになっている。それは、見えるもの、わかっているものを見せることによって、その間隙として示される。

 ウィットゲンシュタイン曰く、語り得ないものについては沈黙しなければならない。が、映画では示しうる。なにも化け物映画に限ったことではない。『アメリ』のような話ですら、主人公にも、自分が誰だかわからないのだ。もちろん、観客にも。そして、それこそ、観客自身が、自分で自分が誰だかなんてわかっていない。だからこそ、映画の核となる、その物語のテーマになる。