聴覚芸術としての映画4

 ミュトスは、言わば、1つの街のようなものだ。あちこちの通りに路地が抜け、それぞの建物に人が住んでいる。それを台帳にしてみても、結局、わけがわからない。街を知るには、自分も住んでみることだ。その街を体験することだ。

 映画はまさに、1つのミュトスの体験だ。その中を観客が歩き回ってこそ、観客の体験になる。だから、その体験のメリハリとして聴覚的な時間制が求められる。1つの街のスナップショットの寄せ集めでは、ダメなのだ。大通りから路地に入り、道に迷い、人に聞き、カフェで一息入れていたら、さっきの人が知り合いが通りかかり、いままで行ったこともない秘密の場所へ案内される、というように。

 波にたゆたう心のリズム、激流を下る心のダイナミズム。この時間制があってこそ、そこに映し出される岸辺の映像が心に焼き付く。映画において、サウンドトラックこそが、その心の船であり、セリフや音楽、弛緩と緊張の上にこそ、映像が映像として意味を持つようになる。どこで見た映像か、という全体なしに、どの映像も意味を持たないのであり、その全体とは、1つの時間的な映画体験にほかならない。