聴覚芸術としての映画3

 濃密な時間、それこそが映画に求められるものだ。人は映画によって、倍、生きることができる。その物語によって、人の人生まで生きることができる。

 なぜそんなことが可能か、というと、物語が物理的な原因と結果ではなく、理由と帰結の連鎖でできているから。それ自体は時間的な延長を必要としていない。思い出というものが、時間的なかたまりではないのと同じことだ。

 映画においては、まさに人の「思い出」を移植する。それは時間的なものではない。だが、「思い出」は、1つの「夢」にまとめ上げる必要がある。断片のままでは、「思い出」ですらない。1つの思い出の部分であってこそ、それぞれの場面に理由や帰結としての意味が与えられ、それが思い出になる。この、1つにまとめあげる「夢」の構造として、1夜という時間的な枠組が必要になる。

 場面は、全体によってのみ、理由帰結連鎖の中での意味が生まれる。そして、全体は場面によってのみ構成される。まさにディルタイの言う「連関」だ。しかし、この連関そのものは、時間的、線形的ではない。むしろ、ミュトスとして、ぐちゃぐちゃに絡み合っている。