聴覚芸術としての映画2

 よく知られているように、小津の場合、セリフ頭、セリフ尻から数えて、ふかすコマ数を変えている。つまり、音があってこその映像なのだ。映像ではなく、音の間合いが互いに等間隔であるとき、会話の内容以前に、会話する二人の呼吸が合い、心が通じていることが表現される。逆に、この間合いを、一方を詰め、一方を開けると、どんな会話であっても、たがいに話がかみあっていないことがわかる。

 マルチカヴァレッジにおいて、もっともベースとなるのは、サウンドトラックだ。サウンドトラックのメリハリがきちんと観客の心のリズムと呼応してこそ、観客はその映像に引き込まれていく。逆に、どんなに凝った映像でも、時間軸上のリズムに合わないものは、違和感を放ち、観客は拒絶する。(たとえば激動の場面に挿入される、とんちんかんな象徴的ライオン像の静止画は、興奮する心の流れを遮ってしまう。どうしても、やるなら、フラッシュだが、そもそも彫刻は質感として動的場面には合わない。)

 第一観客としてのプロデューサーは、まず、詰めろ、と要求する。自主映画出身の監督が、おうおうに映像を中心に考え、撮った場面をなんでもかんでも使おうとしてしまうからだ。しかし、いくら叙情映画であろうと、忙しい中で高い金を払って映画館まで来る以上、現実より濃密な時間でなければ、観客は満足しない。