聴覚芸術としての映画1

 エイゼンシュテインからバラージュまで、さらにはメッツくんだりまで、映画は視覚芸術だ、ということになっている。実際、これまた仕方ない。連中は、サイレント映画から入っているから。

 しかし、以前に本にも書いたように、エイゼンシュテインの言うような人工的な「モンタージュ」の技術と理論は、グリフィスやリーフェンシュタール、黒沢らのマルチカヴァレッジの前に敗退し、現場では、前者は後者の二次的なものにすぎないことが明らかになってしまっている。

 ところが、「映画学」、とくに「日本の映画学」となると、いまだに左翼が強いせいか、エイゼンシュテイン・モンタージュの理論が幅を効かせている。ようするに、現場を知らないのだ。彼らは、黒沢ではなく、小津を引き合いに出すが、小津のモンタージュは、エイゼンシュテインのような、脚本に絵を当てはめていく作り方をしていない。むしろ、ラジオドラマに絵が載っているのだ。この意味では、やはりグリフィスモンタージュの方に近い。

 最大の問題はなにか、というと、時間だ。エイゼンシュテインの方法は、時間制の無い脚本に絵を載せていく。だから、静止画のインサートを無神経に多用する。ようするに、脚本の言葉に合った絵が写っていればいいのだ。もちろん、彼の理論にもリズムはあるが、それは絵のリズムであって、心のリズムではない。