オントロギーとしてのストーリー1

 近代は、主観主義として、デカルトの視覚的世界観から始まった、と言われる。存在するとは、空間に延長を持つことだ、と言う。しかし、マクルーハンの中世聴覚世界・近世視覚世界・現代聴覚世界の3段階説を考えるに、カントの統覚は、同じ主観主義であっても、デカルトのものとは根本原理が異なるように思う。それは、聴覚的世界観であり、時間のみが線形に存在している。

 で、ハイデッガーだが、あれを高く評価する人には悪いが、私にはどうにも、あちこちの寄せ集めの二流哲学者にしか思えない。天才的に突き抜けた新しさが感じられないのだ。過去の哲学をよく勉強しているとは思うのだが、それ以上のものがない。ディルタイとカントとフッサールをツギハギにしてニーチェの上に乗っけた感じ。近代哲学の粉飾決算のよう。

 致命的なのが、その根幹の、時間制、という発想だ。結局、物在(Zuhanden)に時間制を加えたのが実存で、両者は決定的に違う、というのだが、その時間制というのは、結局、カントの統覚の亜流であって、デカルトやカントの時代のような理性の普遍性に対する信頼が崩れ去った現代にあっては、独我論に陥らざるをえない。