シャレイドとクリシエ5

 象徴性と記号性は両立しない。象徴性は一回限り。記号化すると、形式的になって、内実を失う。「あしびきの」とか「ちはやぶる」とか、枕詞は、修辞法として、その本来の意味を保ってはいない。クリシエだらけの話は、言わば枕詞だらけの文字列にすぎない。主人公の女の子がじゃじゃ馬で、博士は禿げていて、宝島の地図だか、ロボットのマニュアルだかを手に入れて、アイパッチの悪者が出てきて、などというのは、創造力の貧困、以前に、物語に対する感性がない。

 シャレイドはクリシエの反対概念だ。もちろんクリシエはクリシエとしての使い道がある。上述のような、人物のクリシエなどは、とくにティパージュと言う。しかし、これは、むしろその対象を目立たないように背景に引っ込めるために使うのであって、主要人物は、謎に満ち、シャレイドで、深遠な奥行きを伴っているのでなければならない。

 つまり、シャレイドとクリシエは、うまく使い分けることによって、物語に遠近法的な奥行きを与える。思わせぶりなシャレイドだらけでは、それぞれが自己主張をしすぎて、プロットが分散していってしまう。同じ人物でも、脇役なら、半身はシャレイド、半身はクリシエ、くらい背景に沈めないと、主役が栄えない。

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