シャレイドとクリシエ4

 だから、シャレイドの問題は、物語の根幹にかかわる。壮大に絡み合ったジャングルのような現実のミュトスの中で、なんでも物語になるわけではない。ただあれこれ事件があったとしても、それは、話にならない。話と呼べるのは、その部分に全体の真実が凝縮している場合だけだ。

 よく、『ああ、我が人生』とか、『街角の小さな恋』とか、『サイコ密室連続事件』とか、表現を凝らして書いているワナビがいるが、根本が間違っている。そんなのは、表現の上手下手以前に、そもそも話にならないのだ。もちろん、奇をてらった異様な出来事である必要はない。だが、世界の特異点として、世の真実が凝縮されているような場面を切り出してくるのでなければ、どんなに表現が良くても、水っぽい、ということになる。

 薄い、水っぽい場面は、どんなに集めても、濃くはならない。オリジナリティに欠けるクリシエ(お約束の展開)がなぜダメか、というと、そこに奥行き、表現の深みが欠けるから。同じクリシエが多様に使われることによって、シャレイドとしての象徴性が失われ、記号化してしまうから。

 たとえば、「おはようございます」が朝の挨拶の定番になってしまうことによって、そこに早朝であることも、相手に対するねぎらいであることも消えてしまう。それどころか、むしろ、杓子定規のつまらない午前中の挨拶としての意味さえ得てしまう。

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