シャレイドとクリシエ3

 部分は全体を表す。本書きの技法として、シャレイドは発展した。たとえば、『ネバー・エンディング・ストーリー 第2章』の冒頭に父親と子供のこんなヤリトリがある。

 「なんでそんなボロを着てるんだ!」「これ、ママのセーターだったじゃないか!」

 このヤリトリだけで、この家にはもはや母親がいないこと、父親はすでに彼女のことを忘れてしまっていること、子供はいまだ彼女のことを忘れられないこと、父親と子供の間に深い亀裂があることがわかる。さらには、妻のセーターがボロになっても気にしないほど、生前から父親と彼女の関係が冷え切っていたこと、彼女が、子供の手を握って、寂しい、悲しい死に方をしたことさえわかる。

 シャレイドは、説明的なシーンの節約になる。だが、たんにシーンの節約で用いられているわけではない。それどころか、シャレイドではないものは、物語の中に必要ない。語られるもの、語りうるものは、その全体のごく一部分にすぎない。だから、全体が凝縮している部分のみが厳選されなければならない。その凝縮にこそストーリーがある。

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