ポストコロニアル批評批判1

 人為的なオストラニェーニエが、日本の文学性としてチヤホヤされているのを喜んでいる連中を見ると、こいつら、大学でちゃんと勉強したのかよ、と思いたくなる。1978年のサイードの『オリエンタリズム』を知らずに、文学性もなにもあったものではない。そして、あの本とともに、2001年の911事件は、ロックオンされた、と言っても過言ではない。

 ようするに、連中は、西欧的ではないもの自分たちに似ていないものを欲しているのだ。わざと奇をてらった統辞を濫用するオストラニェーニエが日本的なものとしてウケるのは当然だ。しかし、それは、エディ・マーフィーが、それらしい黒人言葉でまくしたてて白人にウケるのと同じで、本物の黒人たちからすれば、かなり浮いている。

 しかし、これを帝国主義的な問題と考えるのはどうかとも思う。というのは、たとえば、日本のアニメに出てくるドイツ人のイメージの貧困なことと言ったら、アメリカの映画に出てくる日本人の比ではないからだ。だいたい、戦後、日本にとってのドイツ人のイメージというのは、知識人たちが自由に交流していた戦前より実在性を失ってしまった。アメリカの戦争映画に出てくるドイツ人が、日本人にとってのドイツ人になってしまったからだ。

 アメリカ人、というのすらそうだ。ニューヨークには黒づくめのユダヤ人もいるし、フロリダはスペイン系だらけ。もともと寄せ集めの国なのだから、これがアメリカ人、などというのは、存在していない。にもかかわらず、ちょっといいですか、と言いながら、スタイリーに乗っている赤ら顔で、でぼっ腹のおやじが、アメリカ人のイメージとしてできあがり、映画の中でも、マンガの中でも、そんなのばかり。

 「オリエント」の人々が持っている「アメリカ人」というのも、結局は、アメリカ人が持っている「オリエント人」と構造的には大差ない。帝国主義以前の問題だ。たとえば、『だいじょうぶマイフレンド』(1983)などというまったくだいじょうぶではない腐れ映画では、いかにもアメリカ人が、宇宙人だと言う。結局、自分たちに似ていないもの、人為的にオストラニェーニエされたイメージとなると、アメリカ人も宇宙人も同じになってしまう、という証左として、記憶にとどめられるべき駄作だ。

純丘曜彰ブログ速報版はこちら:http://sumioka.justblog.jp/blog/