オストラニェーニエとヴォルター・ザラーテ2

 どこぞの大学のセンセが指導下の女子大学院生を特別研究員のお手当で囲っていて、それが監禁騒ぎになって、先日、事実上の懲戒免職になった。私が見田先生のところに出入りしていたころから、いろいろウワサは聞いてはいたが、こんな末路になるとは。で、その女子大学院生が小説家のワナビとかで、本を出して賞の話が出たタイミングで騒ぎ出したところなんぞ、おやおや、なんでもありだな、と思った。

 この話がどこにつながるか、というと、当該の女子大学院生と思われる人物がオストラニェーニエをやっているのだが、いかにも秀才肌で、あまりに下手なので驚いたからだ。まあ、日本中の高校によくいる文学少女のなれの果てなのだろう。才能が無いんだから辞めた方がいいよ。大江や村上だって、人為的なオストラニェーニエとはいえ、もっと洗練されたものを、うまくやっている。

 だいたいこんなこと、技巧なんかでやることではない、そもそも、技巧なんかでできることではないのだ。友人に本物がいて、というか、本当に患ってしまったことがあるやつがいて、その病状がクリティカルなときの爆発的な饒舌はものすごかった。彼にはわるいが、とてつもなくおもしろいのだ。たとえば、「兄はカネモチ、父はシリモチ、母はヤキモチ、みんなカケモチ、カサモチ、カバンモチ!」などというダジャレを叫びまくる。目があさってへぶっとんでいる。それでいて、自分の病状を微に細に分析し続けたりする。そして、その分析そのものが病んでいて、おそろしく饒舌なのだから、もはや止めどない。

 これを、ヴォルター・ザラーテと言う。オストラニェーニエと似ているが、萩原朔太郎だの、梶井基次郎だの、ジャン・ジュネだのの言葉の羅列は、こっちだ。オストラニェーニエは、シュールレアリズムのように、あえて統辞法の裏を探っていくものだが、ヴォルター・ザラーテは、むしろ言葉の範疇を無視した真実の概念の統辞法を、ダジャレのような形式の中にぶちまけていく。

 たとえば、先の例で言えば、兄がシリモチだったり、母はカネモチだったりしたのでは、言葉として意味をなさない。兄がカネモチで、父がシリモチで、母がヤキモチで、人々がカケモチ、カサモチ、カバンモチであることこそ、まさに彼を病ませた現実を端的に表現している。こんな芸当は、ちょっとやそっと頭がいいくらいでできるものではない。

純丘曜彰ブログ速報版はこちら:http://sumioka.justblog.jp/blog/