アンリライアブル・ナレーター(当てにならない語り手)2

 当てにならない、というより、強いバイアスのかかった主人公の一人語りという設定を用いることによって、出来事を客観化する、という手法がある。たとえば、『ハックルベリー・フィンの冒険』などがそうだ。日本でも、我が輩は猫である』が有名だろう。私が大学1年のときのインタークラスのドイツ語の教材は『ブリキの太鼓』で、語学的以上に、文学的に難しかった。

 強い主観性が、なぜ事態を客観化するのか。あまりに強い主観性は、おうおうに当事者性と両立しない。当事者であるためには、そこに共観性(聖書用語!)が成り立っていなければならない。しかし、浮浪児やネコ、成長を辞めた男は、部外者だ。そして、基本的に、当事者たちに共感を持っていない。そこに立ち現れる人々は、なれあいをはぎ取られ、生の小市民としての姿をさらすことになる。

 ナレーターではないが、ユーゴの『ノートルダム・ド・パリ』においても、副司教フロロは、カジモドを前にして、そのアンビバレントな関係から、まさにその小市民性をさらけだしていかざるをえないところに追い詰められていく。(ディズニー版やミュージカル版などより、原作はもっと複雑で深淵な物語だ。)

 近年では、イシグロの『日の名残り』が話題にのぼるが、その前作の『淡き丘の眺め』や『浮世の画家』も、主人公がアウトサイダーであることこそが、物語の基調となっている。だからこそ、その冷たい視線の向こうに、絶対にかなうことのない切望がある。

 近年、氷男のような、人工的なアウトサイダーを足場にした作品が人気のようだ。しかし、それは、むしろ幼児的、というか、ライ麦畑のような、自他分離の不完全な粘着を感じてしまう。結局、主人公にとって、そして、作家にとっても、自分が世界の中心なのだろう。そこに陶酔するファンを得られるのはよくわかるのだが、語ることの力は無い。

 アンリライアブル・ナレーターにおいて、彼は絶対的な部外者でありながら、なぜその世界に止まり、なぜ我々に語りかけるのか。信用できないのを知りながら、我々はなぜ彼の言葉に耳を傾けてしまうのか。ウソや歪みに彩られていても、それは沈黙ではない。彼には語りたいことがあり、我々は彼に問い質したいことがある。使いものにならない饒舌な冗句の向こうに、言葉を越える語りかけがあり、それをアンリライアブル・ナレーターは、誠実に担保してくれる

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