クリスチャン・メッツとマクルーハン4

 マクルーハンが難解なのは、彼みずからが多チャンネルテレビ的な同時性を実践してしまっていて、あのクセの強い詩的な断片文体が問題であるだけでなく、そもそも彼の主張そのものが多くの両義性を含んでいるからだ。

 たとえば、電子メディア(当時はテレビのことだが、現代のインターネットと読み換えても成り立つところがすごい)の普及によって、一方では、聴覚的な多元性を回復する、と言いながら、他方では、世界の画一化、統一化が進む、と言う。しかし、どっちが本当か、などと問うのは、カント的な旧メディア人の発想だ。どっちも同時進行する。

 実際、我々は、インターネットによって、複数ソースにアクセスできる多元性を獲得した。その一方、ニュース記事やウィキペディア記事、アフィリエートコメントなど、まったく同じソースのものが、重複的に再録されているだけで、ウィットゲンシュタイン的・カフカ的に、まるで同じ日の同じ新聞を何部も買わされて繰り返し読まされるような悪夢に取り囲まれてしまっている。

 映画の中で分析したメッツとは対極的に、構造の外に出ること、メディアのオフスクリーンを自分で見に行くこと。それなしには、結局のところ、新メディア人などと言っても、旧メディア人と大差ない、水槽の中のクラゲのような存在にすぎない。


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