クリスチャン・メッツとマクルーハン2

 マクルーハンの方は、もっと明快だ。はなから、メディアが違う、と言い切る。だいいち彼は、映画ではなく、テレビから入っている。同時的な複数のチャンネルで、その同じチャンネルにさまざまな番組のコーナーや、スポンサーのCFがちゃかちゃかと出てきて、途中でまた、さっきの続きに戻る。

 マクルーハンは、これを「聴覚的世界」と呼ぶ。そこでは、同時的に複数の対象が知覚される。彼に言わせれば、中世の喧噪は、この聴覚的世界に決まっていた。ところが、修道院や学校で沈黙を強い、書かれた文章を読まされるようになって、人間の意識構造は「矯正」されてしまった。

 カントは、その理論の中枢に「統覚」という問題を抱えている。それは、すべての知覚や思考が、結局のところ、意識の時間の流れの上に位置づけられなければならない、という発想だ。一見、もっともらしいが、これは、もとより主観主義的な世界観との循環論証から生じており、マクルーハン的に言えば、線形の文字文化にどっぷり浸かってしまった人間、ということになる。

 すべてのことが同時に並行して、というような世界観は、一八三〇年代のロンドンに始まる、とマクルーハンは言う。新聞のせいだ。同じ紙面の中に、同じ日付のものとして、政治から経済、社会、醜聞、うわさ話、お笑いまで、なんでも盛り込まれており、どこから読んでもかまわない。そして、新聞がなかったせいで、フランスやドイツは、このロンドン人に、はるかに遅れた閉塞的な線形的世界観に固執し、地球へと展開することができなかった、とされる。


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