クリスチャン・メッツとマクルーハン1

 メッツというと、バルトらとともに、映画における構造主義者の典型のひとりであるかのように思われている。しかし、メッツ自身は、その当初から、ソシュール的な一般言語学から生まれた構造主義というものと映画の不適合と感じ取っていた。

 それは、すなわち、一般言語学の線形要請だ。実際に映画を言語として処理しようとすると、いきなり大きな問題に直面する。同時性だ。つまり、一つの画面、一つのシーンに、複数のものが同時に出てきてしまう。

 エイゼンシュテインなどは、言語文法の方に映像文法を合わせるべく、この同時性を捨て去ってしまった。つまり、一画面には一対象しか撮さない。これによって、彼の空のキャラメル箱のようなモンタージュが可能になったが、この強引な手法は、トーキーとともに挫折する。トーキーは、マクルーハンの言う「聴覚的世界」であり、複数のものが同時に聞こえてきてしまう。

 バルトのように、空理空論を壮大に展開している分には問題にならなかったが、それこそマクルーハンと同時代的に、メッツもまた、実際の映画作品の分析において、この問題に直面した。分析しようにも、とにかく一つの画面、一つのシーンに複数のものが絡み合ってしまっており、ばらそうにも、うまくばらせない。それで、大連辞などと言い出すが、それは、それ以下の単位が切り分けられない固有的ランガージュだからだ。


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