アリストテレスの幸福論2

 アリストテレスによれば、失われる可能性のある幸運は、幸福とはつながっていない。だから、善でも悪でもない、無記的なものだ。これに対し、彼は、アレテー(徳、卓越性、実力)というものを言う。それは、たとえ貧乏に落ちても、病気になっても、災難に遭っても、そこからはいあがってくる能力だ。このアレテーゆえに良い暮らしを得るひとは、なにものもそれを揺るがすことができない。

 まことに人の世は有為転変。親に恵まれ、でたらめ放題でも大臣にまでなり、酒につぶれて本性が世間にばれ、政権全体をも傾け、自分で死んでしまう人があるかと思えば、一時は獄に落とされ、病に死線をさまようとも、反省自制で我を取り戻し、人々の信望を得て、政権与党の一角に自分の居場所を見いだす人もいる。

 しかるに、このアレテーは、身体的な実力ではない。精神的なものだ。さらにまた、精神的なものと言っても、知識的なものではなく、習性的なものだ。そして、この習性的な領域こそが、「倫理」と呼ばれる。

 しかしながら、この習性的な領域は、教えられてわかるようなものではない。わかっちゃいるけどやめられね、というアクラシアというギャップがある。だから、アリストテレスは、習性は、教導によって訓練付けられなければならない、と言う。善いこと、きちんと幸福につながることに快を感じるように、親や教師、そして自分自身で仕付けられなければならない、と言う。

 ここで、ようやく幸福論と感性論がつながる。倫理学と美学が一体になる。それは、知識の領域ではない。かといって、身体の領域でもない。その間にあって、快不快にかかわる。さて、正しい快不快、正しい感性とは、どのようなものだのだろうか。


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