コスモファージ2

 それにしても、サルトルに限らず、このコスモファージな学者や評論家というのは世界中にいる。虎の皮を被ったキツネ、というのならまだしも、その中はまったくの虚無だ。いくら他人を喰っても、それはどれも自分ではないから、絶対に満たされることがない。

 なぜサルトルはジュネに惹かれたのか。それは、ジュネが俗物だったからだろう。サルトルもまた、とんでもない俗物の柄でありながら、柄だけの空虚であるがゆえに、真に自分が俗物になりえない。もっと簡単に言うと、口先だけで、俗物としての行動が伴わないやつだ。俗物になりきれず、つねにインテリのふりをしている。だから、実際に行動した俗物を飲み込んで、さも自分が行動しているかのような気になっていた。

 なぜサルトルは空虚なのか。彼は、人はみな自由であるべく呪われている、と言う。が、それはあんただけだろう。たいていの人は、むしろハイデッガーの言うように、生まれた時から、わけのわからない他人の愛憎のしがらみの中にあり、その中から自分の可能性を紡ぎ出す。その与えられたものこそが、それぞれの人の出発点とならざるをえない。

 サルトル的な空虚は、おそろしく恵まれていながら、だれにも愛されていない、まさに空白から生まれてくる。だれにも愛されたこともなく、愛されることもない。それは、容貌や性格のせいではない。もとより、その人として愛されるべきもの、その人となりそのものが欠けているから、他人がそれを愛しようがない。


純丘曜彰ブログ速報版はこちら:http://sumioka.justblog.jp/blog/