ワイドスクリーン・バロック2

 この定義からすれば、なにも宇宙が舞台でなくてもいいわけで、我々の通常の世界観の根本原理のひとつをずらした世界を舞台にすれば、それはワイドスクリーン・バロックだ。とはいえ、先述のように、個々の部分プロットは合理的だから、局所的な話では、世界のひずみに気がつかない。

 古典的な例で言えば、かのSFの父、ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』(1872)なんぞ、ワイドスクリーン・バロックの先駆と言える。八十日間の個々のプロットは正しいのに、東の太陽を出迎える方へ旅行していったために、全体としては1日がひずんでしまっていたというオチは、まさに非ユークリッド的な世界観に基づくものだ。

 そして、このひずみを、オチだけではなく、プロットの中にまでちょくちょく持ち込んで見せ場にするとなると、まさに世界中をぶんぶん飛び回ることになる。そのたびに世界のひずみのせいで、まともな話がややこしいことになっていく。とはいえ、ややこしいように見えて、じつはそれはそれで整合的なのだ。

 もちろん、ここでとっぱずすのは、なにも幾何学の原理である必要はない。ミノフスキー粒子のせいレーダーが使えない、というだけで、大まじめに有人ロボットの白兵戦が始まり、へんちくりんな形の宇宙船が宇宙を飛び交うことになる。

 世界を支配する原理という意味では、物理法則をいじくったSFというのがたしかにやりやすいが、宗教改革を経ることがなかった現代、などという非A的な物語世界もある。経済や食料、エネルギーの設定をとっぱすずこともできる。『華氏451度』は、消防士(ファイアーマン)が火をつけてまわる、などという、典型的な非Aの世界設定だろう。また、死んでも死なないゾンビを取り込んだ、とんちんかんなホラーは、世界に数しれない。そんなわけのわからんのと、まじめに戦ってどうする、とは思うのだが、これがばかばかしくて、おもしろい。こういうのも、一種のワイドスクリーン・バロックだ。

 かといって、やたらとっぱずしすぎると、屋台骨が落ちてきて世界が裏返り、いわゆるファンタジー的な、あっち側の別世界になってしまう。しかし、ワイドスクリーン・バロックにおいては、あくまで局所部分では、合理的で凡庸で普通でないとならないのだ。だからこそ、全体のひずみがおもしろくなる。それゆえ、話のスケールは、壮大でなければならない。


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