イン・メディアス・レス6

 ラーオコオーンは、トロイア国の神官で、城門前に置き去られた巨大な木馬を運び込もうとする市民たちをいさめた人物だ。ギリシア側の征服女神アテーナは、このこうるさい男を二頭のウミヘビによって始末してしまう。

 問題になったのは、ローマの地下「グロット」、暴君ネロの黄金宮跡で発見されたラオコーン像だ。「グロテスク」は、本来、そのグロットなどの装飾様式で、左右対称に描かれた軽快な花蔦飾りのことだったが、このラオコーン像によって、ひねりゆがんだスタイルを意味するようになってしまった。

 それでも、ヴィンケルマンは、これを、古典的な抑制の効いた気高い作品として賞賛した。ところが、これに対し、レッシンクは、これは表現の抑制なのではなく、かみ殺されてしまう前の、戦う気概があった瞬間を切り取ったものとして、空間芸術と時間芸術のジャンルを分断した。

 このことは、しかし、古典的芸術論の大御所ホラティウスにもケンカを売るものだった。ホラティウスの美学においては、ウト・ピクトゥラ・ポエーシス(絵のように詠う)とされ、イマジネイションの源泉が同一と考えられていたからである。

 劇作家からすれば、喰われちまうなどという説明的なシーケンスなんかより、襲われて抵抗する瞬間的なシーンにクライマックスとなる見得切りを設定するのは当然だ、ということだったのだろう。だいたい、昔も今も、評論なんかする連中は、自分ではなにも作らないで、結局、有名な既存の作品にぶらさがっている名前を売ろうとしているだけじゃないの、と思ったのだろう。

 しかし、この問題を、空間芸術と時間芸術の対立にしてしまったのは間違いだ。先述のように、時間芸術の典型であるホメロス叙事詩こそ、すでにスライス・オブ・ストーリーの技法を先駆的に用いており、ホラティウスもまた、そのことに充分に気づいていたこそ、ホメロスを挙げて、ウト・ピクトゥラ・ポエーシスと唱えたのだ。


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