イン・メディアス・レス5

 ところで、数百年遅れでドイツに現れたルネッサンス学者に、ヴィンケルマン(1717~68)がいる。ゲーテ(1749~1832)やシラー(1759~1805)によるワイマール古典主義に多大な影響を与えた人物だ。

 これには、ポーランド継承戦争(1733~35)が関わっている。この戦争によって、ナポリが南下するオーストリア・ハプスブルク家の支配から脱し、スペイン・ブルボン家として独立した。そして、このことによって、西暦79年のヴェズーヴィオ火山の噴火によって埋没していたナポリ近郊のヘルクラネウムやポンペイの発掘が始まり、大量の美術品が出土してきたのだ。

 これらを見て、古典学者ヴィンケルマンは、その先入観から大きな思い違いをした。すなわち、偉大なる古代は、その安定した民主政治の下において「高貴なる単純と静謐なる威厳」を実現した、と言い出した。しかし、じつは、ポンペイなんか、歓楽のリゾート地だったのだし、そこにあった美術品も、大半が安っぽい模造だった。それは、金ピカで張りぼてラスヴェガスを見て、あれが現代アメリカの一般的な街の風景だ、と思うようなものだ。しかし、なんにしても、ろくに情報のない時代だったから、このヴィンケルマンの思い込みの新古典主義は、彼の『ギリシア芸術模倣論』(1755)や『古代美術史』(1764)によって中世的なロマン主義を蹴散らし、ヨーロッパ中に広まった。

 ところが、ここに若き劇作家レッシンク(1729~81)が『ラオコーン』(1966)で噛みついた。いわゆる「ラオコーン論争」だ。

 つづく。


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