イン・メディアス・レス4

 なぜこのようなことが起きるか、というと、情報というものが、既知の情報群を基礎として解釈されるからだ。我々は、先に知っていることを正しいとしてのみ、新しい情報の意味を理解することができる。それゆえ、むしろ逆に、新しい情報の取得は、それが既知の情報群に整合的になるように意味づけるとともに、既知の情報群に対する疑いを失わせるように働く。(テレビやインターネット、新興宗教が次から次へとどうでもいい情報を垂れ流すことによって、それ自体への疑問を抱く隙を与えないのも、このメカニズムを応用したものだ。)

 しかし、小説において、これはおうおうにマイナスに働く。アプ・オーウォな語りは、それは理論的な哲学としてはいいのだが、小説の場合、まったくどうでもいい周辺の話がだらだらと続き、肝心の焦点が全体の巨大な体系の中に飲み込まれて見えなくしまう。マッキーはスライス・オブ・ライフという言い方をしているが、ストーリーそのものもまた、スライス・オブ・ストーリーとして断面から始まった方が、その全体の中心へ直接に読者を導くことができる。

 ここにおいて、回想ないしフラッシュバック(挿入的回想)によって語られるプレクォールは、可能性を開かれたものとしてではなく、焦点の出来事への必然を準備するもの、として強く意味づけられる。つまり、アプ・オーウォでは、ある出来事は、そこからさまざまな出来事を派生しうる余地を残しているのだが、イン・メディアス・レスでは、それがない。

 たとえば、『メリーに首ったけ』でのバカな高校時代の回想は、二人の関係を必然にする。もしあれが時間順序のままで、その後の13年をだらだらと描いていて、ようやく冒頭の場面に至ったならば、だれが主人公に共感を持つだろうか。なにを今さら、ということで、一笑に終わってしまう。しかし、現在という断面から始めることによって、高校時代も、その後の13年間も、すべてが再会への必然の根拠になる。


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