物語における人格分離不全6

 だいいち黒澤明からしてそうだ。『羅生門』で、わけがわからない、ということですら、全部、黒澤自身が観客に語ってしまっている。まして、『七人の侍』など、完全に出来勝負だ。外人はああいう独裁的な語り口に驚くかもしれないが、映画の模範とはなり得ない。

 これらと笠原和夫の映画の脚本と較べてみるがいい。アーチャー同様、たがいにわかり合えないということを描き出すために、同一場面の中で羅生門的なパーセプション・ギャップを大量にたたみかけていく。それどころか、個々の人物の中にまで、心情の本音と意地の建前のズレを組み上げていく。それも、そういうキャラクターたちが、グランドホテルの何倍もの数で登場し、それぞれがぶつかり合う。だから、『仁義なき戦い』だの、『二百三高地』だの、とんでもない映画ができる。

 ようするに、そこに個々の登場人物への愛があるかどうかだ。自分好きの独裁者からすれば、端役なんかどうでもいい。主役級にしても、みんな自分の分身にすぎない。ところが、作家ないし脚本家が、いったん黙って、個々の登場人物に聞いてみる。すると、そのそれぞれが自分で訥々と語り出す。しかし、そのほとんどは、ウソの見栄だ。しかし、そのウソさえもないがしろにすることなく大切に生かすとき、そのウソの向こうが画面に出てくる。キャラクターによる直接話法とは、そういうことだ。


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