物語における人格分離不全5

 物語における人称は、文法的に一人称つかうか、三人称を使うか、などという形式的な問題ではない。一人称であろうと、三人称であろうと、まず、物語そのものが間接話法なのか、直接話法なのか、が問題になる。

 現代の日本語の場合、小説において、同一人物は同一名称で記号的に呼ぶことが多いが、これは話者による間接話法だからだ。一方、欧米語では、相手によって話しかけ方が異なり、ミスターで呼ぶ場合から、愛称で呼ぶ場合まで、また、口調もかなり幅が広い。このため、セリフは直接話法的になり、地の文はト書き的、ないし、登場人物のモノローグ的になる。そして、関係節の部分に、唐突にモノローグとは異質の、作者自身の説明が入り込んでくる。

 もちろん日本語でも、『源氏物語』などでは、敬語によって、もっと複雑な構文構造を持っていた。物語の中の発話者と聞き手、発話者に言及されている対象の相手、そして、物語の作者と物語の読み手の間においても、それぞれに敬語関係が成り立っており、これによって、人称はめまぐるしく変化し、読み手もまた、その中に巻き込まれていく構造になっていた。

 ところが、現代の日本の小説は、中庸調を旨とすることによって、大きく失ってしまった。まして、日本のマンガやアニメは、キャラクターそのものが記号的であるために、直接話法的な表現手法を欠いている。そして、それにどっぷり浸かった世代になると、映画の脚本まで、この中庸調の記号的な形式で欠かれている。


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