物語における人格分離不全4

 さて、日本のアニメは、監督が作画を兼ねる、ないし、監督が演出を支配するものがあり、この場合、すべてが間接話法的にになってくる。逆に言えば、『ラピュタ』も『千尋』も、宮崎自身が観客に直接に語ってしまっており、キャラクターは薄っぺらになる。

 映画の脚本でも、下手なやつになると、同じようなことが起こり、それを監督もスタッフも気づかないまま映画館にかけられる、ということがある。たとえば、最近の映画で、こんな場面がある。ある人物AとBが知り合いで、AはCを探し、BはDを探し、AがCを見つけたところに、Bもやってきて、CとDが同一人物だったことがわかる、というオチだ。

 一見、よくできているように見えるが、しかし、このオチは、プロならやってはいけないことにすぐに気づく。というのも、CとDが同一人物だ、という以前に、AとBとで、なんであんた、ここにいるの、ということになり、その説明のひとくさりで、CはDだ、という肝心の山がそがれてしまうからだ。

 しかし、映画では、このAとBの互いの疑問がない。脚本家や監督が自分で語っているために、AやBの意識のズレを体感することができていないからだ。そもそもAやBは、個別の意識を持っておらず、脚本家の中で人形として動いているにすぎない。

 これを、たとえばジェフリー・アーチャーの『ケインとアベル』などと較べてみるといい。アーチャーは、たがいに理解しあえない二人を、それぞれに書き進めていく。小説にもかかわらず、読者は、語り手のアーチャーではなく、そのときどきでキャラクターのケイン、ないし、アベルに依拠し、いかに相手が理解できないか、を、そのときどきに体験するのだ。


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