物語における人格分離不全3

 マンガの場合、コマを越えるキャラクターの呼応コンポジションを構築しなければならない。それがないと、コマからコマへ視線が誘導されない。このために、マンガ家は、コマ単位ではなく、ページ単位で作画していく。もちろん、中には、キャラクターごとにペン入れをコンビやグループで分けているマンガ家もいないではないし、ガヤなどはアシスタントに任せてしまうということもある。が、これをやると、カットの時間差や奥行きの距離のあるアニメイションと違って、マンガの見開きページが、なんとなく乱雑に取り散らかった印象になってしまう。

 このため、マンガでは、アクションはもちろん、顔つき、目つき、口元まで、ほとんどのキャラクターが同じ、という異様なものが数多くある。それでも成り立つのは、髪型や眼鏡などのアトリビュートで、だれがだれだかわかるようになっているからだ。もっと極端なことを言ってしまえば、だれがだれだかわかれば、個々のコマの絵なんかどうでもいい。視線さえ引っ張れればいい、ということになる。

 それは、小説において、発話者ごとにフォントを変えたりしないのと同じことだ。そんなことをしたら、読みにくくて仕方がない。同一明朝のフォントの方が、妙な引っかかりがなくて、筋に集中することができる。

 ところが、落語やラジオドラマで、同一演者が全部のセリフを読むにしても、同じ口調でやると、誰が誰だかわからなくなる。それは絵がないからではない。それどころか、絵のある紙芝居の演者こそ、まさに極端に声色を変える。それによってはじめて、キャラクターが成り立ってくる。

 つまり、マンガや小説と、紙芝居やアニメとでは、キャラクターの成り立ちに決定的な違いがある。マンガや小説ででは、読者はストーリーを追っかけており、ここのキャラクターは、詰まるところ、話者である作者そのものだ。そこでのセリフやアクションは、言わば、すべて間接話法になっている。ところが、紙芝居やアニメになると、観客はストーリーの生成に立ち会うのであり、セリフやアクションは直接話法となっている。したがって、間接話法的な話者が表に出てきてはならない。


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