物語における人格分離不全2

 マンガ・アニメを記号として捉えた手塚治虫は、いわゆるバンクシステムとして、同じ絵を使い回せるように、人物がかぶることを嫌った。つまり、キャラクターがコンポジションをなさず、細かくピンショットのカットばかりが切り替わっていく作り方だ。当時はまだ作画そのものも未熟だったから、キャラクターの顔つきがカットごとに異なる、などということは、珍しくもなかった。それでも、きちんと見分けが付いて、話が成り立つように、手塚は、キャラクターのアトリビュート(特徴)を明確に分けていた。

 一方、宮崎は、全部を自分で描こうとした。手塚的なバンクシステムを嫌い、キャラクターのコンポジションを好んで使った。そのくせ、ディズニーのようなセル重ねをせず、同一セルに複数キャラクターを同時に動かす、というようなことを平気でやってのけ、天才の名を馳せた。たしかに、この方がセル枚数は少なくなり、予算的には助かるのだが、キーフレームの異なるアクションで原画を起こして、それで後できちんとトウィーン(間取り)ができるというのは、驚異的なことだ。

 しかし、この結果、マルチプレーンの深度ボケによるディズニーの映画的な奥行きは失われ、シロアリハウスと大差ない、パンフォーカスの、アニメ的なアニメができあがることになった。(高畑勲は、自分たちは「アニメ」ではなく「アニメイション」だ、などというが、この奥行きのない、説明的なぺちゃんこさは、手塚の電気紙芝居とは異なるとはいえ、ディズニーのアニメイションともまったく異なっている。)

 それ以上に、この種の日本アニメの一人作画が致命的な欠陥となったのは、キャラクターのアクションがみんな同じになってしまった、ということだ。ハイジもペーターも、まったく同じ驚き方、まったく同じ叫び方、まったく同じ照れ方をする。伴忠太も星飛雄馬もみんな同じ泣き方をする。無意識なのだろうが、作画家の自分自身の表情が様式的に反映されてしまう。さすがにキャラクターは設定で異なるのだが、アクションに個性がないのだ。アクションに個性がないのでは、動きが命のアニメイションにおいて、キャラクターとして成り立っていない。


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