ストーリーとしての人生

 人の昔語りほどつまらないものはない。ちょっと人生で成功すると、自費出版で、『ああ我が人生』などという本を書きたがるやからがいるが、それは、宝くじに当たった人が、宝くじの当て方を自慢するようなものだ。そういう人には、同じことをやって外れた人が、数限りなくいることが見えていない。だから、つまらない。

 Aをし、その後、Bになった、というのを、AをしたからBになった、と因果的に捕らえる誤謬は、アリストテレスでさえ指摘している古い誤謬だ。Aをしなくても、Bになるかもしれないし、Aをしても、Bにならないかもしれない。

 人の生涯もまた、わかりにくいものだ。簡単に説明がつくほど、つまらない一生もないだろう。本人にさえわけがわからないのだから、まして他人にわかるわけがない。あいかわらず、やたら長い歴史小説というのが、よく売れているが、どうでもいいな、と思う。

 しかし、重要なのは、人生のある一瞬だ。もちろんそれは、数年でも同じことだ。ニュートンの目の前でリンゴが落ちた瞬間、アインシュタインが世界中の学者たちにけなされても平然としていた数年。そこで、人の一生が決まる。こういうスライス・オブ・ライフの中に人生のストーリーが凝縮する。

 宝くじだって、当たったことより、それを買った瞬間に人生が決まったのだ。なぜ彼はその日、宝くじを買ったのか。その宝くじを買うのが、ほかの人であっても不思議ではなかった。だから、そこにストーリーがある。そして、その宝くじを買うのは、彼ではなく自分であったかもしれない。だから、そのストーリーはおもしろい。

 それぞれの人の人生は、それぞれの人のものだが、そのスライス・オブ・ライフは、他の人の、もしかすると、自分のものでもありうる。だから、人はそこに関心を持ち、意味を見いだす。織田信長の全生涯なんて、時代も生まれも、あなたとは関係ない。それは、わかりやすいニュースと同じで、たんなる現実喪失にすぎない。信長を自分の重ねているのは、仮面ライダーごっこをしているガキと同じだ。そして、そのことそのものが、むしろ、現実の自分がそれではないということを暴露してしまっている。

 人は、その人に生まれるのではなく、その人になる。サルトルボーヴォワールを待つまでもなく、アリストテレスの時代から言われていることだ。しかし、それは、自然にその人になるのではなく、なにかをすることによってのみだ。人の話を読んでいるだけで、その人になったりはしない。それどころか、トランプでパスをして手を流しているようなものだ。自分が自分のストーリーの登場人物になるのでなければ、なにも始まりはしない。


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