わかりやすいニュース

 テレビの仕事をしているころ、わかりやすいニュース番組というのが、やたら受けていた。しかし、現場にいた感覚からすれば、視聴者はバカだ、と思った。なにしろ生のソースそのものがわかりにくいのだ。それがわかりやすい、というのは、まったくの贋物の作り話にきまっている。なんでそんなのを喜ぶのか、理解できなかった。

 昨今は大学でも、わかりやすい講義、が、上からも下からも歓迎される。ゆとっている円周率なんか、3ぽっきりだ。おいおい、スーパーの夕方のたたき売りじゃないぞ。絶対に割り切れないから、円周率が魅力的なのじゃないか。

 真実はわかりにくい。網の目のように、現実の奥深くにまで根を張っている。それをそっと引っ張り出そうとするのだが、途中で切れてしまう。いや、向こうに切られてしまうのだ。その断面から、さらに元をたどるのは容易ではない。しかし、それが真実というものだ。

 で、テレビでは、深夜をいいことに、わかりにくいものをぐちゃぐちゃのまま視聴者の目の前に放り出す番組を作った。わかりやすいニュースの対局にあるような報道だ。それどころか、たがいに微妙に避け合っていた者をあえて同席させた。もちろん、結論なんか出ない。しかし、それが現実だ。とはいえ、あるところからバランスが崩れた。わかりやすくなってしまったのだ。それで、嫌になった。

 小説でも、学問でも、ニュースでも、いまの日本のマスマーケットは、わかりにくいものなど受け入れる余地はない。というか、わかりにくいものがあるはずがない、あってはならない、と思っている。しかし、それは妄想だ。その妄想に合っているものを供給すれば、売れるのはわかっている。しかし、そんなエロ雑誌のような仕事は、なにも私がやらなくても、ほかに、それをやって儲けたい人がいっぱいいるだろう。実際、確実に儲かる。

 『マトリックス』という映画をおもしろがる人々は少なくなかったが、彼らはそれをおもしろがっていることがマトリックスの中のことであることに気がつかない。あの元ネタは、プラトンの洞窟の比喩で、洞窟から出る手段は、洞窟の外から伸びる根を掘り出すしかない。しかし、この脱出は、リップマンの言うような、ステレオタイプの人形劇を好む連中には悟られてはならない。

 その外側、というのは、じつはまさに内側だ。それらが作られてくる理由にこそ秘密が隠されている。ウソは、ウソを語ることによって真実を隠そうとしている。だから、語ろうとされていないことに真実がある。それを知るには、性急に自分がなにか語ることを辞め、まず疑って黙ることだ。そして、割り切れない向こう側で、ほかの人とぽっこりと出会って、たがいにびっくり、ということも珍しくない。


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