脚本無しの映画作り

 マッキー氏にも説明したことなのだが、日本では、じつは昔から脚本なしに映画を作ってしまうことが珍しくない。黒澤明をはじめとして、監督自身が、脚本を飛ばして、絵コンテ(ストーリーボード)を自分で描いてしまうのだ。

 この傾向は、アニメにおいて甚だしい。宮崎駿はもちろん、原恵一などもそうだ。宮崎のは、原作も無し、脚本も無しとなると、いかにもぐだぐだだが、原恵一の方は、おそろしく話がうまい。そこらの脚本家とは比較にならない。だったら、脚本無しでも、絵コンテでいいんじゃないか、ということで、それが慣例になってきてしまっている。

 なんにしても、絵コンテさえも仕上げない状況で、企画がグリーンライトになり、短期間で仕上げる必要性を口実に、絵コンテが出来た部分から制作が始まってしまう。こういう無防備は、連載マンガから生じたのだろう。最後まで確定になっていないまま、シチュエイションだけで企画を承認してしまって、連載を始め、それから伏線を仕込んでいって、どうにか収拾する。昨今、テレビドラマでも、こういう状況は珍しくない。というか、ほとんどがこのフェリーニ・パターンだ。

 しかし、宮崎の失敗作を見ればわかるとおり、これは危ない。全部、頭の中ではできあがっているんだ、などというのは、まったくのウソだ。そのウソにプロデューサーが白紙委任するのは、人のカネを預かる者として責任放棄だろう。それでも、宮崎のように、その監督のカリスマ性で客が呼べるなら、とりあえず興行的には成功するが、しかし、そのほとんどが、内容的には失敗作だ。

 黒澤や原の成功作は、むしろ例外中の例外と言ってもいい。というより、これらの作品の場合、外側の大枠(素朴な物語コード)から作って行っている。その大枠がしっかりしているから、その裂辞の間に挟まる話がおもしろい。つまり、絵コンテは細部を詰めているだけだ。だから、後からでもかまわない。ところが、細部から積み上げていく宮崎の場合、方向が定まらず、後半三分の一で空中分解し、言い訳だの説明だのが始まる。絵の勢いでクライマックスにもっていくが、なんのためのクライマックスか、すでに見失われている。

 一方、黒澤や原の場合、クライマックスは、むしろ観客に枠の縛りをメロドラマ的に、一時、忘れさせるためのもので、むしろ大枠とは思いっきり反対の方向へ引っ張って行っている。そして、その頂点を越えた向こうには、最初に定めた大枠が、宿命的にのしかかってくる。とはいえ、観客も、真の意味で忘れたわけではない。上っていくジェットコースターの向こうがどうなっているか、うすうす恐れを抱いているものだ。永遠には登り続けられないことがわかっているからこそ、クライマックスがクライマックスになる。

 脚本無し、完成した絵コンテ無し、というのは、作る、作らないの、物理的な問題ではない。クライマックスの向こうオチが観客にもうすうす感じられるものでないと、クライマックスがクライマックスにならないのだ。ところが、作り手自身の手の中に、その向こうの醒めた思いが無い、というのでは、観客がそれを感じることなどできるわけがない。


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