ヨレスの単純形式3

 ヨレスが先進的なのは、文芸学として、スポーツ新聞やゴシップ週刊誌の文章も、その考察の対象としているところであろう。しかし、ロラン・バルトだって、その考察の対象は、イアン・フレミングのスパイ小説だったりする。文芸学ということで、人工的な文芸作品のみを扱っているのは、日本の学者たちの奇妙なコンプレックスだろう。

 ヨレスは、それどころか、スポーツ新聞やゴシップ週刊誌の方が単純形式だ、と言う。一見、事実のみを記した報告書の方が、文章としては単純に見えるが、しかし、それは、実際は、理性的に因果関係を整理して、余計なものを削り落とした加工品だ。しかし、ヨレスに言わせれば、畑から取れ立ての記憶は、泥だらけに決まっている、ということになる。

 彼によれば、スポーツ新聞の記事は現代の聖伝であり、記録によって列聖審査される。一方、ゴシップ週刊誌の記事は、事件を思い起こすことに重点が置かれており、そのためには、あること、ないこと、尾ひれがついて、ノヴェル(小説)のような体裁を取る。先述のように、ロマンと違ってノヴェルがもともと小劇として上演されるべきでものであったことを考えてみれば、事件を思い起こさせる記事が小説と一体化していくのは当然のことだ。

 逆に、ヨレスは、いわゆるジャーナリズムを単純形式とは見なしてはいない。彼の分類からすれば、それこそ司祭的な芸術形式(人工形式)の典型のひとつ、ということになるだろう。事実を記事にしているように見えて、じつはそれは徹底的な解釈によって整理されてしまっている。

 同様に、戦前のヨレスが言及すべくもないが、今日のインターネットに溢れかえる与太話こそ、単純形式であり、我々の発想の土壌そのもの、ということになる。そして、文芸学を、空理空論のスコラ的イデオロギーとしてではなく、地に足をついたものとして研究しようというのであれば、この、一見でたらめに見える妄想の羅列こそ、我々は我々の文芸形式の根源として考察しなければならない。というのも、良くも、悪くも、妄想こそ、まさに我々自身の純粋な「理性」なのだから。


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