ヨレスの単純形式1

 ナラトロジーは、ロシア・フォルマリズムから始まった、などと書いてある本があるが、不勉強もはなはだしい。ゲーテだ、ゲーテ! 前にも書いたように、フランスではなく、ドイツの方が本家で、20世紀フランスの議論のほとんどが、ドイツのものの焼き直しだ。それもわからんと、ありがたがっている日本の連中はどうかしている。

 フランス革命期、グリム兄弟やフィヒテ、シェリンクは、民族精神としての言語や物語に注目し、ここから芸術形式以前の単純形式としての物語の研究が始まる。そして、この伝統は、ニーチェの系譜論やハイデッガー、ガダマーまで、ずっと続いている。くわえて、興味深いのは、これらの研究が、ルカーチやヨレス、さらにはロシアやフランス、アメリカのキャンベルやボネットなど、周辺諸国の人々にも大きな影響を与えたことだ。つまり、民族精神としての物語論であったはずが、人類普遍の形式を掘り出してしまった。

 とくに注目すべきは、1930年代のヨレス。彼は、『単純形式』という本で知られる。単純形式、というのは、今風に言えば、物語コードのことで、小説などが個人のディスクールであるのに対し、民族的なラングとして機能している。ただし、それは、言語行為論を先取りするものでもあり、ヨレスは、なぜ人々はそれを語るのか、に焦点を当てている。

 具体的に言うと、単純形式というのは、聖伝(レゲンデ)、家誌(サーガ)、神話(ミュトス)、謎、ことわざ、掟格(カースス)、記事(メモワーラビレ)、小話(メルヘン)、頓智などのことだ。これらは、なにかについて語っているように見えるのだが、じつは、広く語られることによって、他の語り方のパラダイムとして機能している。カント的な意味での純粋形式となっている。

 たとえば、6本の樫の木に5匹の猿がいる、という謎は、そこに答えも隠されている。そして、そもそも、樫についても、猿についても、語ってはいない。謎は、問う者、または、答える者を社会ないし結社に入れうるかどうかを試すものであって、もともと語られている対象を持っていない。

 事実に基づくかに見える聖伝や家誌、記事ですら、そうであって、事実に基づいて聖伝であるのではなく、聖伝によってこそ、その事実が倣うべきものとして提示される。詳細は自分で読め。

 重要なのは、我々の発想や理解の根底が、科学などではなく、このようにぐちゃぐちゃな伝承の沼地だ、ということだ。いや、科学的、と言っているものさえも、神話ないし掟格、小話のたぐいだろう。こういう単純形式ぬきには、我々はなにも考えることすらできない。そして、それらは、あまりに自明であるために、というか、これらこそが公理であるために、それを問うことも忘れている。


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