キャラクターの自律と人格的錬金術3

 しかし、おうおうに、人は型にはまる。そういう規約を守らなければならない、と思っているうちに、ほんとうにそういう規約を守るようになり、守らないやつを許せない、というようになる。それも、自分で選んだ型なら幸せだ。また、たとえ与えられた型でも、世襲その他で期待されるペルソナなら、幸せだ。

 だが、大半の人間はそうではない。屈折した人物たちによって、不利な役を押しつけられる。たとえば、東大コンプレックスの教員に、勉強のできない子は、罵られる。それは、その教員が、それによって、自分の得られなかったペルソナを回復する手段だからだ。

 曼荼羅をはじめとするトランスパーソナルな治療は、与えるペルソナたちを客観化することで、このように自分与えられてきたペルソナを溶解し、キャラクターないしネイチャーから再錬成する。

 しかし、これは、誤った人の下で行うのは危険だ。というのも、こうして殻を破っておいて,生のキャラクターに別のペルソナを植え付け、奴隷的にコントロールする、という手法が、今日、あちこちで用いられている。ここでは、人格統合の中心を盗み取られてしまう。その植え付け効果は、学校で「外側」からえばり散らす教員の比ではない。

 もうひとつの問題は、ペルソナそのものの欠如だ。戦後、反抗期にペルソナの型をすべて拒絶し、群れをなしたり、引きこもったりすることで、それを実際に拒絶できてしまった結果、外郭を持たない人々が、現実に多く存在している。彼らは、外郭を持つ、装う、ということもできない。つまり、統合失調のマージナルな気質を示す。彼らは、社会的に安定した位置(心情)を持たず、あちこちのアニメや小説の中の世界を漂流し続ける。そこでは、どの登場人物も、恐ろしいまでに、みな同じ顔をしている。それどころか、こういう世界観が、外にまで流失し、他者と融合していく。しかし、それは真の融合ではありえないがゆえに、物語の神の地位を巡って、たがいに罵り合い、真の神である物語の作者を激しく崇拝/嫉妬することにしかならない。

 トランスパーソナルとしての自己定位と、ペルソナの欠如としての神とは、多くのペルソナを従える点において似ているが、根本が異なる。前者において、個々のペルソナもまた自由に解き放たれるが、後者においては、結局、自分とまったく同質のものを区画分けただけにすぎない、言わば究極的な自己愛だ。

 物語を制御するには、作者自身にペルソナを与えるものを現象学的にスイッチを切って、エポケーに持ち込み、そのことによって、与えられてきたペルソナの数々、与えられうるペルソナの数々のみを自己の内に再配置する。そのとき、それぞれは自分とは別のキャラクターとして育ち、それぞれが個別に統合して自律し、独立して動き出す。


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