キャラクターの自律と人格的錬金術2

 問題は、社会心理学において、このプロトタイプ、アーキタイプ、そして、個々のロールタイプが社会的に物語コードとして共有されていることだ。たとえば、警察官だったら、こうふるまうだろう、というような規約(コンベンション)ができあがっている。

 サルトルの言うように、人間は無であるべく呪われている。それゆえ、何者かであるフリをしている。つまり、物語の中以前に、現実の人間そのものがそうだ。アルバイトの店員はアルバイトの店員らしくふるまう。自分がこれまで客として接してきているので、店員というもののふるまい方をよく知っているから。

 ここで重要なのは、これは内面的なキャラクターではなく、ペルソナないしアクタントであって、とりかえ可能である、ということだ。実際、多くの人々は、個々の場面ごとに取り替えている。同じ人物が、母であり、娘であり、姉であり、妹であり、客であり、店員である、というようなことが可能であり、その都度、規約のセットを取り替えている。

 ロバート・マッキーは、このような外的なペルソナないしアクタントの集積としてのキャラクタリゼイション(人物設定)に対し、キャラクターを、危機的タッチストーン(試金石)によってのみわかるもの、としている。興味深いことに、『論語』における孔子も、人の仁に関し、同じことを言っている。仁は、見た目ではわからない。

 実際、マッキーは、まったく同じキャラクタリゼイションでも、まったく異なるキャラクター設定は可能だ、としている。無遅刻無欠席で定年まで勤め上げた、人望ある警察官であっても、その内面は闇だ。というのも、キャラクタリゼイションというのは、規約の問題だから。同様に、はちゃめちゃに規約を破る人物でも、その内面はわからない。内面まで破綻しているのか、それとも計画尽くの装いなのか。


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