アクション映画の2つのスタイル1

 アクション映画、なんて、バカにする研究者も多いが、これほど当たる映画ジャンルもない。はっきり言って、映画はアクション映画のためにある。映画という形式は、まさにアクション映画に最適なもので、こんなの、小説その他では魅力が半減してしまう。そんなこともわからずに、映画の研究なんぞしているようなやつは、ドブにでも落ちてしまうがいい。

 しかし、ロバート・マッキーが言うように、これほど難しいジャンルもない。なにしろ、これまで作られてきた映画の半分は、なんらかのアクション映画なのだ。宇宙空間から、海の底、高圧線の上だの、アイガーの崖っぷちだの、ほとんどたいていのスリリングなアクションは、映画でもやり尽くした、と言えるほどだ。

 とはいえ、言ってしまうと身も蓋もないが、映画のアクションは、かならず解決するものだ。逆に言うと、そのスリリングさは、観客に、解決がありえない、と思わすところにあるのであって、仕掛けの大きさによるのではない。

 この解決の仕方は、伝統的に2つのスタイルがある。一つは、連続活劇スタイル。もうひとつは、泥沼スタイル。その切り替え目は、おおよそ一九七〇年代ころになる。やたらなんでもシリアスになってきたノワールな時代だ。

 連続活劇スタイルは、ものすごい危機に陥った、というところで、また来週、となるもの。とないえ、次の週の解決はあっけない。たとえば、メリーさんは線路の上に縛られ、汽車が迫り来る。さてさてどうなる、次回をお楽しみに、というところで終わるのだが、続きは、いきなり、そこへやってくる保安官、ナイフで綱をざくりと切って、メリーさんを馬へ引き上げ走り出す、というような、伏線もへったくれもない続き方をする。こういうの、こうるさい連中からすれば、ひどい、ということになるが、おもしろいんだからいいじゃないか。

 この連続活劇スタイルは、テレビに取り入れられ、『スパイ大作戦』のCM前の引っ張りなどで、お約束として、かならず用いられていた。いまでは忘れられてしまったが、ジャンポールベルモンドとか、スパゲッティ・ウェスタンとか、娯楽もののヨーロッパ映画では、よく好まれるコミカルな作風だ。『善玉・悪玉・卑劣漢』でも、こういうすっぽ抜けの危機がなんども繰り返される。


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